★ 愛新覚羅社 中山神社 ★
      山口県下関市綾羅木本町7-10-8  TEL 0832-53-0704

つい先日流転の王妃・最後の皇弟というテレビ番組でも紹介された愛新覚羅浩
(あいしんかくらひろ)さんとご主人の溥傑(ふけつ)さん、そして長女の慧生(えいせい)さん
を奉祀する愛新覚羅社を訪ねてみました。
この社は山口県下関市綾羅木にある中山神社の中に造られています。  JR綾羅木駅近く
の中山神社入口という交差点を過ぎると、あとは真っ直ぐな道を進んで行くと大きな石鳥居
の神門に着きます。 この交差点から先の道は今では両側に住宅地が広がっているのです
が、元々は中山神社の参道のようです。



中山神社正面                          右手にある社務所

中山神社は幕末の急進派公家であった中山忠光卿をご祭神とする長門国北浦総社です。
中山卿は明治天皇の叔父にあたり、尊皇倒幕に一生を懸けた偉丈夫でした。
維新前夜の1863年当時、朝廷も幕府も長州藩も混乱を極め、開国・攘夷・勤王・公武合体など
など国内の思想や針路も四分五裂していました。
この年の夏、大和の国(現在の奈良県五條市)で中山卿は倒幕の挙兵をおこすのですが、会津
藩・薩摩藩それに公武合体派の公家達の起こしたクーデターにより状況は一変し、中山卿を盟
主とした天誅組は彦根藩・紀州藩の兵の攻撃により壊滅させられます。
中山卿他の数名は血路を開いてこの場を逃れ長州へと落ちて行きました。



右手前にある手水舎                       そこには何故か鶏の群が。

大阪から海路で長州へと落ち延びた中山卿を迎えた長州藩は、第一次長州征伐の前年でも
あったため藩内は幕府に対する恭順派が主流を占めており、やがて中山卿への幕府の探索の
手が伸びて来ると翌1864年11月8日に長府藩(長州藩の支藩)士に命じて卿を暗殺してしまう
のです。



神社本殿                            宝物殿案内看板

中山卿が暗殺された現場は現在の中山神社から50Kmほど離れた豊北町田耕だと言われて
います。 一説によれば長府藩士達5〜6名は卿の遺体を幕府に検分させるため運んでいたの
だそうですが、やがて夜が明け人目にもつき始めたためやむを得ず綾羅木の小高い丘の上に
埋葬したのだと伝えられています。
その後僅か37日、高杉晋作と奇兵隊による回天の義挙が也り、藩内の恭順派は一掃され、
中山卿が埋葬された場所に社殿が造られ鎮魂を祈られるようになりました。
このように中山卿の暗殺は薩摩と並ぶ維新の雄藩として知られる長州藩が揺れに揺れていた
時代の暗い事件の一つと言えるのかもしれません。
現在の中山神社の社殿はその後、国道建設の際に現在の場所に移転して来たらしく、そのた
めもあってか境内全体が新しく綺麗に感じられます。

     
愛新覚羅社の石柱                          本殿左手にある白雲木の説明

中山忠光卿が長州で過ごした際、恩地とみという女性との間に南加という名の姫が生まれます。 
この南加姫が後に嵯峨公爵家に嫁ぎ、孫として生まれたのが嵯峨浩(さがひろ=後の愛新覚
羅浩)さんです。 つまり浩さんは中山忠光卿の曾孫にあたります。
嵯峨家は明治の初め頃まで正親町三條(おおぎまちさんじょう)と名乗っており、公家のなかで
も名門中の名門といわれています。
浩さんはご縁があり日本国と満州国を結ぶ親善結婚として満州国皇帝溥儀(ふぎ、いわゆる
ラストエンペラー)の弟、溥傑(ふけつ)氏に嫁ぎます。
その際に貞明皇后から「この種を満州の新居に植え、その木と共に彼の地に根を降ろし日満
親善のために努力せよ」というお言葉と共に手渡された白雲木の子孫が中山神社本殿の左手
に残されています。



こちらが愛新覚羅社                       社の由来を記した石板

昭和20年の終戦と同時に満州国は崩壊し夫君の溥傑さんは皇帝の弟であったため中国に
逮捕され、浩さんは一年以上の流浪の末に日本へ帰国します。
お二人の離ればなれの暮らしは16年に及びますが、長女の慧生さんが当時の中国首相で
ある周恩来氏に書いた手紙がきっかけになり、溥傑さんは特赦を得て復権します。
その後お二人は北京で幸せな老後を過ごしたそうですが、浩さんが昭和62年、溥傑さんが
平成6年に亡くなり、長女の慧生さんと三人をこの地にお祀りしたのが中山神社の中に境内
摂社として造られた愛新覚羅社です。
日本の神社や社(やしろ)は東か南向きに造られているのだそうですが、この愛新覚羅社は
溥傑さん浩さんお二人の日中友好の志を踏まえ、はるか海を越え、中国を望む西へ向けて
建てられています。



宝物殿                             入口左手にパンフが有ります。

愛新覚羅社の右奥にある宝物殿は平成8年に中山忠光卿生誕百五十年を記念して建てられた
もので、収蔵物は中山忠光卿と天誅組縁の物と、溥傑さん浩さんに関する物が半々くらいに展
示されていました。
それらの中で浩さんが婚礼の際に着用されていた赤色の十二単はとても素晴らしく、長い時間
を超えて私達に感動を与えてくれました。
残念ながら館内は撮影禁止とされていますので写真ではご紹介出来ないのですが、皆さんは
ぜひここを訪れてご自分の目でご覧になってみて下さい。
・・・きっと浩さんの貫いた愛が見えると思います。



中山忠光卿の墳墓                        国指定史跡の看板

最後に本殿の右奥にある中山忠光卿の墳墓を訪れてみました。墓石には藤原忠光卿と記されて
おり、これは中山家の先祖が藤原家であるからという説と、明治天皇の叔父を暗殺したという事
実を長州藩がひた隠しにし、ここに埋葬されている人物を判りづらくするためであったという説が
あるそうです。
まぁ隠蔽工作をするなら墳墓そのものを消してしまわなければ無意味なようにも思えるのですが、
維新の後、各地の藩主は「伯爵」の地位を貰えたのに対し忠光卿暗殺の当事者であった長府藩
主は「子爵」に留め置かれたという点から、後者の説もあながち間違いとは言えないのかもしれま
せんねぇ。
・・・この辺りの事情は宝物殿入口に置かれている「中山神社七不思議」と記された印刷物に詳し
く記されています。 こちらも歴史好きの方にはとても興味深く読めるんじゃないかと思います。
どうぞ中山神社を訪れてご覧になってみて下さい。